沈黙すること
今年も押し迫ってきました。
振り返ってみて、実に様々な出来事があった一年でした。
その中でひとつ、自分にとって非常に感銘を受けた出来事がありました。
あまり愉快な出来事ではなかったし、書かないでおこうかとも思ったのですが、あれからずいぶん時間が過ぎたし、このブログを読む人もそう多くはないでしょうから(笑)、自分の気持ちを整理するためにも記しておこうと思います。
もう半年以上も前のことです。
ある飛び込みのお客様からパソコンの設定を依頼されました。
ご依頼を受けたAというソフトの設定自体はいつも行っている内容で、特に難しくもないものでした。
ところがその方のパソコンにはBというメールソフトが入っており、それが邪魔をして設定を完了することができません。
Aの設定をするためにはBのソフトを若干操作しなければなりませんでした。
そこでAの設定を完了するためにいったんBを操作し、無事Aの設定を完了してパソコンを引き渡しました。
ところがその後、そのパソコンでメールの送受信ができないというご連絡を頂きました。パソコンをお持ちいただき確認してみると、確かにそのようです。
生徒さんにはお詫びをし、もう一度パソコンをお預かりしました。
それからあれこれ調べてみると、以下のことがわかりました。
・Bのソフトが入っているパソコンでAの設定をすると不具合が発生する可能性がある。
・ソフトを提供しているマイクロソフト社ではその事実を認識しており、最新版のソフトではそのような不具合が起きないように仕様が変更されている。
その生徒さんのパソコンに入っていたソフトは旧バージョンだったために、そのような不具合が生じてしまったようです。
そこで上記のことをご説明した上で、メールソフトの不具合に対応し、メールの送受信に関しては以前の通りにできるようにすることができました。
ただ、週末にパソコンをお預かりすることになってしまい、重要なメールのやり取りができずに不便な思いをしたということで、散々のお叱りを頂きました。
「Aの設定を頼んだだけなのにBまで勝手にいじられて、非常に迷惑した」
「おたくが余計な操作をしたために、パソコンの調子が悪くなってしまった」
「こんなことならおたくになんか頼まなければよかった」
それに対して私は、技術的な説明をできる限りていねいにした上で、不十分な状態でパソコンをお引渡ししたことをお詫びしました。
そもそもその方はあまりパソコンには詳しくない方なので、私の説明に対しても、ずいぶん的外れなクレームを付けられましたが、それを申し上げたところで火に油を注ぐだけになるのは明らかでしたので、「とにかく申し訳ありませんでした」と頭を下げ続けるほかはありませんでした。
最後は「どうせ心の中では私のことを馬鹿にしているんだろう」と言い残して、帰って行かれました。
事のあらましはざっとこんな感じです。
この出来事は、私の心に強い感銘を与えました。
まずパソコンの設定に関して、自分の対応を振り返ってみました。
今、もう一度時間をさかのぼってパソコンをお預かりしたとして、別の対応ができただろうかと考えてみました。
それでも結局は同じ対応をしただろうと思います。
お預かりした時点では、そのような不具合が発生することは(私には)予見できませんでしたので、同じ操作をしただろうと思います。
もちろんパソコン全般に関する私のスキルがもっと優れたものであれば別ですが、今の私の「町のパソコン教室の先生」のレベルでは、それはわかりませんでした。
〈いろは教室〉には、実に様々なご相談が持ち込まれます。
教室でお教えている内容から大きくかけ離れたことやまったく取り扱っていないことであることも珍しくありません。
そして私は、基本的にはどれもお断りすることはありません。
それはこういうことからです。
1つは、たいていのご相談に対して対応できるという自負があるからです。
たとえ自分が知らない内容であっても、調べられるものであれば調べて、ご相談者のお役に立ちたいと思っていますし、またそうしてきたつもりです。
もちろん出来ないこと、わからないことに関しては、きちんとそのようにご説明させていただいています。
出来るかどうかわからないことをお引き受けすることにはリスクが伴います。
やってみてできなかった場合、その旨をご説明したときにガッカリされたり教室の評判を落としてしまうことにもなりかねません。
そうであれば、自分の守備範囲から外れる部分には手を出さない方が賢明なのかもしれません。
野球でも、難しいゴロが転がった時に、無理せずに見送れば「ヒット」と記録されますが、なんとかアウトにしようと飛びついて球をはじいたりすれば「エラー」という不名誉な記録がついてしまうかもしれません。
私はそれでも、できれば飛びついていきたいという考えでいます。
そうすることで喜んでくださる方がいらっしゃるのであれば、私もまた喜んでそうしたいと思うのです。
ただしそのためには、惜しくも球をはじいたときに「ナイスッ」とか「惜しい!」とか「ありがとう」と声をかけてくれる信頼できる仲間がチームメイトであることが必須です。
幸いにして教室に通ってくださる生徒さんたちのほとんどは、私のことを信頼してくださっています。
だからこそ私も臆せず難しい打球に飛びつくことができますし、仮にそれでエラーしてしまっても(滅多にありませんけれどね)、事情を説明すれば気持ちよく納得していただけているのです。
この出来事があってから、パソコンの設定を承る時には念書のようなもの(最善を尽くしますが不具合が発生する可能性もありますのような)を書いていただかなければならないかなと、少々暗い気持ちで過ごしもしましたが、今のところは従来通りに対応しています。
あくまでも生徒さんとの信頼関係を軸にして、お付き合いさせていただきたいと思っています。
件のお客様についても、ほかの生徒さんと同様に満足していただこうと精一杯のサービスを提供しました。
料金もきわめてリーズナブルなものであったと思いますし、私は作業のためにかなりの時間を費やしました。
ご依頼内容(Aというソフトの動作設定)については、完璧にできていました。
その上で不可抗力的に発生してしまった不具合についても、ほぼ現状を回復することができました。
そして丁寧に丁寧に、心を込めてご説明させていただいたのですが、その結果は悲惨なものでした。
少し前まで私は、きちんと向き合って心を込めて話せば、気持ちはきっと伝わる、そう思っていました。
果たして、人と人とは真に理解し合うことができるものでしょうか。
それはきっと不可能なんだろうと、今では強く思っています。
争いごとやいじめも、世の中からなくなることはないでしょう。
人が二人以上いれば、必ずそこには何らかの軋轢が生じます。
芥川龍之介に「藪の中」という短編小説があります。
そこで語られているように、世の中に起こる事実は一つでも、真実は人の数だけあります。
事実を眺めるのは人間で、その人間のフィルターを通して物事を理解するのですから、当然です。
ひどい時には一つの事実がまったく真逆に解釈されることもあります。
善意(のつもり)で行ったことが悪く取られて非難されたり罵られたり。
「いやいや、そんなつもりではないんですよ」
相手に自分の気持ちを分かってほしくて一生懸命説明するのですが、相手は理解してくれるどころか、ますます自分の真意とは違う受け取り方をして、状況は悪化の一途をたどる…。
でも、それは無理もないことなのだと思います。
人と人とがつながるのに、「言葉」というものは非常に脆弱で不完全な道具なのですから。
言葉が意思疎通のツールとしてどうにかこうにか役立つことができるのは、特定の条件の下でのみです。
すなわち、伝えようとする人と受け手側の間に信頼関係がある時だけです。
たとえばここに愛し合う二人がいて、一方が他方を傷つけてしまった。
でもこちらは傷つける意図などまったくなく、むしろ相手のことを大切に思っている。
けれども些細な行き違いから、険悪な状態になってしまった。
そんな時、相手を思う気持ちが強ければ強いほど、言葉を尽くして自らを説明しようとするでしょう。
でもその試みが成功するのは、「この人の言動によって私は傷ついたけれど、この人が私を愛してくれているのは間違いない」と信じている場合のみです。
そのときには、話し合いの関心は、相手の言葉ではなく相手の心に向かい、涙と感謝で終わるのだと思います。
誤解があったのならそれは解け、以前よりも美しい結びつきが強まるでしょう。
でもほとんどの場合、自分を理解してもらおうという試みは失敗に終わります。
議論好きで自分が正しいと信じて疑わない、私を含めた現代の人たちは、互いに相手の言葉の揚げ足を取り、巧みに言葉をすり替え、なんとか相手を打ち負かそうとするのです。
でも相手を打ち負かそうとするのは、必ずしも自分が相手の上に立ちたいという欲望からではないのかもしれません。
「自分が正しい」あるいは「相手が間違っている」「相手に悪意がある」ということを純粋に信じていて、自分が傷つけられたことに純粋な怒りを感じているからなのかもしれません。
たとえ相手の側に傷つける意図など全くなかったとしても、あるいは相手の気持ちを真逆にとっているのだとしても。
そうであるとしたら、私たちはどのようにして、どのような態度で生きていくのが正しいのでしょう。
正しいとまでは行かなくても、賢い生き方なのでしょう。
沈黙は金
今の私の境地では、この言葉に勝るものはないような気がしています。
もしこの世が調和した世界であれば、善意や好意は感謝と涙で受け取られるでしょうが、残念ながらこの世の中はそうはできていないようなのですから。
無為に言葉を重ねて溝を深めるのであれば、無言を貫いたまま相手の幸せを願う方がはるかに清い生き方のような気がします。
とまあ、人が分かり合えないということを託ってきたわけですが、それでは「自分が正しく理解される」ことに耐えられる人はどれほどいるのでしょう。
少なくとも私は、正しく理解されて平気なほど清らかな心を持っていません。
ほどほどに誤解されているからこそ、「センセーはいい人ね」と言ってもらえるのだと思います(笑)
そう考えると、正しく理解されないということは、私のような未熟者にとっては案外恵まれたことなのかもしれませんね。
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